2015年2月8日日曜日

不機嫌なママにメルシィ!

 前日に重量感のある(思ったより重くは無かったけど)「ニンフォマニアック」を観て、翌日に「映画の日」を利用して軽めの「365日のシンプルライフ」と「不機嫌なママにメルシィ」を観ると言う流れはなかなか良かった。個人的に少し気持ちに重いものを抱えてる時期だったから、僅かに軽減させる効果もあったしね。

 主演、監督、脚本のギヨーム・ガリエンヌの自伝的内容。幼少のころから(おそらく成人して)恋人と出会い結婚を決意するまでを描く。ガリエンヌは母親と自分自身を二役で演じる、というところは基礎知識。元々舞台だったものを映画化したもので、随所に(狂言回し的に)舞台のシーンも登場する。

 たまたま前日観たニンフォマニアックも、主人公の幼少時から現在まで登場し、また、シャルロット・ゲンズブール(71年生)とガリエンヌ(72年生)が同年代(ついでに言えば、俺も)なんだけど、ニンフォマニアックの方が主人公を子役、若いころ、現在の3人で演じてるのに対し、こっちはコメディというコトもあり幼少時から全てガリエンヌ自身が演じる。だから40のおっさんが高校生くらいの子供に、高校生役で混じることになり、女性を演じるよりこっちの方がインパクトが強い、ってのが変な面白さ。女性役は上手過ぎて違和感無いんだよ。

 舞台のシーンは現在の「男性」であるガリエンヌ、加えて「女性」の母親役と、「なよなよした男の子」である若いころの自身、という演じ分けが凄い。 劇中にも、母親や他の女性のたち振る舞いを観察して、徹底的に真似したという描写があるけど、あれは恐らく本当なんだろうな。だから彼が演じる母親は、「男性俳優が演じる女性」というギャグではなくて、「母親=女性」として登場する。だから母親はオカマには見えない。だったら何故普通に女性に演じさせなかったのかというと、少なくとも幼少時のガリエンヌは母親の「移し身」として存在していて、その描写として母と自分は同一人物が演じる必要があった。それは母が潜在的に望んだことであり、ガリエンヌがそれに無意識的に応えようとした結果であることが解る終盤のシーンの後、舞台のシーンに戻るとガリエンヌの独演を見守る母親役が「本物の女性(もしかして、本当に母親か?)」になっていることではっきりする。

 ネットで見た評のひとつに「最後ゲイじゃなくて良かったという結論として描かれている」とあったんだけど、それは違うんじゃないか、と思った。まず、ガリエンヌ自身は自分のことをゲイだと思ってはいなかった、というところが重要。この辺は結構複雑なんだけど。

 ガリエンヌの自己認識は「自分は女の子であって、大好きな母親みたいになりたい」というところから始まっている。とはいえ、自身が肉体的に男性であることも理解はしている。しかし、所謂GIDとも違って、肉体と精神のギャップに悩んでいるというより「自分が女の子らしいと母親が喜ぶ」という認識から、半ば無意識にそうたち振舞っている。

 序盤、フラメンコの自分の踊りが女性の踊り方だと指摘されるシーンで「女の子に見えるならママが喜ぶ」って言うんだけど、実はこのセリフがラストで重要になってくるのね。前述したとおり、ラストで「自分を手放したくなかった+女の子が欲しかった母親の溺愛が自分をこう育て、自分もそれに応えようとした」と解るシーンに直結するセリフなんだな。

 そこの思い込みの強さが「女の子であろうと言う意思によって女の子でいる男性」というポジションを作りだす。若いころのガリエンヌは男性に恋するんだけど、それは「自分は女の子だから男の子に恋する」というある種のパターン認識である節が強い。だから、同級生に「オカマ」と呼ばれるのは否定するんだけど、母親に「ゲイだ」と言われてしまうと急にハッテン場に出かけてみたり、カウンセリングを受けたりする。それは「ママが言うならゲイなのかもしれない」という想いと「ママが欲しかったのはゲイではなくて女の子である僕」という思いが交錯したものだったんじゃないかと思う。
 
 だから、最後に彼が喜んでいるのは決して「ゲイでなくてストレートである僕」ではなくて「自分の本来の姿を見出したこと」に対するものなのね。だから逆に、色々あって自分がゲイであることがはっきりしていたとしたらそれはそれで堂々と母親に宣言して、それを喜ぶラストになってた筈なんだよ。「自分探し」って言い方をすると陳腐になっちゃうんだけど。

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