2014年11月5日水曜日

イーダ

 観なくてもいいかなー、と思っていても観なかったら結局後悔するかも、と思うとかなり無理矢理でも観ないと気が済まない。観ないで後悔するなら観てがっかりした方がいい。そう思って、かなり無理矢理観に行ったのがこの「イーダ」という映画。タイミングを逃してるうちに近場で最後の上映館が終わろうとしていたので、平日にわざわざ行ってしまった。「どうしても」という映画ではないのに。

  ジャズが印象的に使われている、という程度の薄い動機で引っ掛かったので、実際よく考えるとそんなに深い興味が無い。だから公開始まってもだらだら先延ばしにしてしまっていたのね。でも何故か観なきゃいけない気がして。

 時代設定が60年代初頭で、ナイトクラブのシーンではジャズとポップソング(英国の最新R&Bよりちょっと野暮ったい感じなのが絶妙)がバンドによって演奏される。そこでイーダが惹きつけられるのがコルトレーンのNaima。俺は「あんまり上手くないな」って思ったんだけど(笑)まあ場末のキャバレーバンドだからある意味それもリアリティだろう。そういえば「サックスの音色が80年代っぽい」っていう評があって少し笑ったんだけど、俺もドラムのパーツ(特にラグの部分とか)が50〜60年代製には見えないな、って思ってた。古い時代の映画、機材選択は難しいよね。リアルに見せるためには「新品のヴィンテージ機材」が必要なんだから。

 お馴染み閑話休題。

 正直、難しかった。フランシス・ハに続きモノクロ映画を感じ取りきれないパターンだ。表現が多分繊細すぎるんだよね。先日観た「悪童日記」も静かな映画だったけど、それ以上に静か。セリフは極端に少なく、表情や状況を読み取らなきゃいけない場面が多い。まあ、ガサツな俺には向いてないよね。だけどモノクロってのがそのために効いてるな、とは思った。音楽は叔母さんのかけるレコードとナイトクラブのシーンで意図的に派手に表現されている感じ。コントラストを作ってるんじゃないかな。


 セリフが少ないのはイーダ役が素人だから、と最初は思ったのだけど、それは違うよね。セリフの無い演技の方がむしろ難しいんじゃないかな。特に、何回か出てくる落ち着かない感じの演技が秀逸。なんていうかねー、なんか、あるじゃん。その場で目の前の出来事に対峙した方がいいなーと思いながら出来なくて、逡巡しつつその場を立ち去るんだけどどこにも居場所がなくて、って言う、アレですよ。凄い伝わるんだよね。あればっかりは凄い。無表情なのも素人ゆえのものではなくて、ちゃんと無表情の演技だし。そういえば余談だけど、さっき対比した悪童日記の主役(双子)もプロの俳優じゃない。同様に無表情の演技が印象的だった。どっちも大戦と東欧っていう共通点もある。

 それから「間」が多い。食事のシーン、車に荷物を載せるシーン、それにイーダの祈りのシーン。テンポ感のいい映画を観慣れていたから少したるく感じたけど、これも静寂の表現の一つなんだろうな。特に印象的だったのがイーダが物思いにふけるシーン。いかにも「考えてますよー」って演技じゃなくて、ひたすら無表情で意識が内面だけに行ってる感じ。すごく大事なことと考えてもしょうがないこととつまんないことを同時に考えてる感じ。


 画面構成も「間」の表現なのかな。人物が右(または左)下に配置されて空間が凄く強調される画が多かった。で、それを「イーダと神をフレームに収めている」って解釈があって一つの考えとして納得。確かに、彼女のアップのシーン、中央に収めたシーンなんかは「神と別行動している」って捉えられるところが多い。なるほど、でした。

 叔母のヴァンダは薄々知っていた過去に向き合いきれず、命を絶つ選択をした。イーダは知らなくて済んだ筈の過去と向き合い、今までの生活と正反対の俗世を知り、自分と正反対の他者を知り、解ろうとして、知らなくて済んだ筈の未来の選択肢を垣間見て、そこから意思を持って自分の信じる未来を選択した。具体的な選択肢は画面には示されない。修道院に戻ったという解釈と、また別の道を歩みだしたという解釈と、どちらにも説得力があるけど、既に純潔でもなく、かといって俗世に塗れてもいない彼女がどこかに所属したり帰依したりできる気がしないんだよね。少なくとも、ラストシーンで一人歩く姿からは聖職者として一本道の単純な未来はイメージできなかった。

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