2014年10月31日金曜日

サンシャイン 歌声が響く街

「サンシャイン 歌声が響く街」は正直何で見たのかよくわからない。スコットランドが舞台でポップミュージック系のミュージカル、なんかハッピーな感じがする、あとは英国制作繋がりでFRANK観た直後だった、とか色々条件が重なって、うっかり観てしまった感じ。

 なんてーかねえ、要するに普通の男女のカップル(壮年夫婦含む3組)が普通に恋をして(既に結婚していたりつきあっているもの含む)普通に軋轢や障害が起こって、普通に壁を乗り越えて、普通にハッピーエンド、そういう内容の映画って要するに俺には向かない。ここでバルフィとかシンプル・シモンを引き合いに出すと誤解を受けるとは思うんだけど、やっぱりハッピーに暮らせるのが当り前の人々が当り前にハッピーになりましためでたしめでたし、では引っ掛かりが無さ過ぎる。それならそれでどれだけエンターテインしてくれるのよ、って訊けば「ミュージカルです。歌って踊ります」えーっ?それだけぇ?

 主役と言えるカップルが3組あって、まず今年銀婚式の壮年夫妻、その娘と、彼女の兄の親友(軍隊で一緒だった)、映画の序盤ではその兄は独り者だけど、妹の同僚を紹介されて付き合い始める。で、まあ持っているドラマの量からして今書いた順番の重みでストーリーは進行している、ように見える。

 最初の40分は彼らのハッピーな姿、ハッピーになっていく姿を延々描写し続け、何も展開しない。兄貴に彼女が出来るシーンが強いて言えば展開だがパーティで知り合ってあっという間に付き合うから展開らしい展開にも見えない。だらだらとハッピーに暮らし続け、そんなもんわざわざ映画にするなよ、と思う。後半の波乱への伏線としてお父さんの隠し子(娘)登場のシーンが出てくるが、重要なシーンとは言え退屈を紛らわせてはくれない。

 中盤、両親の銀婚式でようやく、しかし唐突に話は動く。隠し子から受け取った彼女の「両親」の写真を妻の方が発見してしまい、その場で夫婦の危機が訪れる。娘は娘で彼氏の公開プロポーズを断ってしまい、彼をからかった男と喧嘩が起り、そこに兄ちゃんがついでに加勢してそれを止めようとする彼女に手をあげかけてしまいついでにこのカップルにも軋轢が発生する。取ってつけたような急展開を取ってつけた流れにこっちは呆然とするのみだ。

 さて、仲直りのパートだ。兄ちゃんカップルは切っ掛けが些細だったから拍子抜けするくらいあっさり仲直りする。だいたいこのカップル揃って瞬間湯沸かし器でつまんないコトで喧嘩してあっさり別れ話になって簡単に復縁する。現実にはこういう馬鹿いっぱいいるけど、映画で見ても鬱陶しいだけだ。妹カップルは仲直りには至らず、妹はアメリカへ、彼氏はやけくそで軍に戻る、という分かれっぱなし展開を見せる。そして両親は、夫が唐突に卒中かなんかで倒れたのを機に看病からの仲直り、という典型的な問題解決抜きでの終結を見せる。と言うわけで、普通はここで妹カップルの仲直りに主眼が移ると思うじゃない。

 しかし、ここで兄ちゃんカップルにもう一回危機が。ある意味コレが最大のどんでん返しだった。

 またしても些細な会話から仲違いをしてしまう二人。出ていく彼女を追いかけ、なんとか捕まえて誤解を解こうとする(というより言い訳をする)とまたしてもあっさり怒りが解ける。そして喜びの歌とダンス!これぞミュージカルの醍醐味!大団円に相応しく、周囲を巻き込み大々的なダンスが……って、えー?あなたたちのシーンで終わりなんですか!?明らかに重みを置かれていた両親夫妻でも、妹カップルでもなく、引き立て役的に存在しているように見えた兄ちゃんカップルで大団円!?

 ちなみに妹カップルは、手紙のやり取りするシーンこそ出てきて時を経た後の再会を匂わせるもののハッピーエンド的描写は無いまま終わる。まあ、そういうリアリティなのかもしれないけど、この流れとミュージカルで半端にリアリティ出されても……

 お母さんの「顔」の演技は素晴らしかったです。人間、ハッピーな時は綺麗でも荒んだ時醜くなるじゃん。アレが演技で出せてるのは、凄いと思った。あと父ちゃんのセリフにケルト系民族っぽさを感じた。以上。

2014年10月30日木曜日

Kenny Jones

フーを最初に見たのはライヴ・エイドだったし、それで好きになったんだから俺にとってケニーは全然「フーに合って無い」ドラマーではない。シャープでタイトなドラミングは少なくとも80年代には凄く格好良かった。Won't Get Fooled Againのケニーのフレーズはいまだに俺がコピーするときにも混ざり込んでくる。

 それからキースのプレイを知ったわけだけど、勿論フーのドラマーとしてキースは圧倒的に凄くて、ああ、これが「本来の」フーなんだ、というのはちゃんと感じつつも決して「ケニーじゃあやっぱ駄目なんだな」と思ったことは無かった。無かった、というか、現在に至るまで一度も無い。

 それでも、ケニー自身の60年代、スモール・フェイシズ時代のプレイを聴くと80年代の彼はどうしてあんなに端正なプレイヤーになってしまったんだ?と思う。この頃のプレイを聴くとキースにも負けないくらい手数も多いし荒々しいよね。フーの頃は、やっぱりあの時代のフーの音楽に合ってはいるけど、キースの頃の曲を聴き比べた場合の「普通さ」は時にどうしても気になってしまう。特に16分音符でタムを普通に回す系統のフィルが結構多くて、コレがまあ、言ってしまえば野暮ったいんだな。

 ケニー・ジョーンズの特徴はやっぱり「どうしようもなくダサい」ということだと思う。とにかく野暮ったい顔つきもさることながら、ドラム叩いてる時のイマイチ堂々としない情けない感じとか、スモール・フェイシズ以降はどうしても目立ってしまう体躯の小ささとか、なんか変なパーマっぽい頭とか、どうしても佇まいがダサい。佇まいがダサい人がヤマハのドラムをスクエアに叩いていたらまあ、普通は格好悪く見えるよな。やむを得ん。

 でも、そんなケニーが物凄く格好良く見えた瞬間がフェイシズでのI Know I'm Losing Youのライヴ映像だった。しかもドラムソロ。ケニーのドラムソロなんか格好いいわけがないと思ったら、特別に難しいフレーズは叩かないし、ある意味ケニーのイメージ通りの「ダサい」フレーズのソロなんだけど、なんだか妙に格好いいんだよね。グルーヴだけでソロを構成してる感じもいいし、ダサいなりに完全に的を射たフレーズ(いや、実際にはフーでもそうなんだ)を叩き切る感じ。格好いいケニーを見たのはあの時だけだし、あれだけは素直に認める。格好いい。

2014年10月29日水曜日

Santana / Soul Sacrifice

旧ブログでもやったネタだけども。

 そこかしこで散々言っているけど、俺にとってサンタナとはマイク・シュリーヴとグレッグ・ローリーである。シュリーヴとローリーのバンドにカルロス・サンタナっていうギタリストがいるらしいよ、くらいの扱いであり、流石にそれは言い過ぎだ。

 と言うのもやっぱりサンタナへの入り口はウッドストックでのSoul Sacrifice、というよりこの曲のドラムソロだったからだ。いや、正確にはライヴエイドのPrimera Invationで、この曲も大好き(勿論ローリーもシュリーヴもいない)なんだけど、アルバムをちゃんと聴こうと思ったのはSoul Sacrificeだったし、この曲を聴いた瞬間、Primera Invationはこの曲の焼き直しだというコトに気づいてしまったのだからむしろ第一印象の方が分が悪い。もっと言うと80年代のドラマー、グレアム・リアはシュリーヴに顔がそっくりでプレイは彼をもう少し雑にした感じであり、人間まで焼き直し感があってそれはあまりにも失礼な物言いじゃないか。

 サンタナ1stのレガシー・エディションには初期ヴァージョンも入っているし、勿論スタジオ録音もあって、この曲は結構色んなヴァージョンが聴ける。初期ヴァージョンははっきり言って出来がよいものではない(ドラムソロ以外もね)。スタジオ版は端正に纏まっているけど、やっぱりこの曲の神髄はライヴだ。

 YouTubeではタングルウッドでのライヴも観れるけど、やっぱりウッドストックのヴァージョンは白眉。ドラムソロのメリハリはこっちの方が圧倒的だと思う。俺にとっての三大ドラムソロの一つだけど、それはこのヴァージョンに適用される。この映画でサンタナは一躍注目されたっていうけど、それはやっぱりシュリーヴの功績が大きいんじゃないかな。他のテイクもいいけど、やっぱこの時のシュリーヴは別格だ。

 

2014年10月28日火曜日

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー

 アメコミ、特にマーヴル・コミックスは好きなんだけど、マーヴル映画は一個も見たことが無かった。そんな俺がマーヴル映画初体験するのがXメンでもアヴェンジャーズでもなくて、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーとは。

 チーム的にもキャラクター的にも予備知識はほとんどない。ヴィランイメージの強いドラックスが主人公側にいる?とは思ったけど、見た目が俺の知ってるドラックスとは違ったから同名の別人(マーヴルのキャラにはしばしば存在する)だろうと思っていた。ネビュラやサノス、ノヴァが出てくるのも知らなかった。むしろ興味をそそったのはサウンドトラック。スターロードことピーター・クィルの母の形見のカセットの収録曲が俺たちの琴線触れまくりの70〜80'sヒットなのだ。しかもメンバーがならず者ぞろい。ちょっと破天荒なノリが期待できる……と思って、仕事帰りにふらっと近所のIMAXシアターに出かけた。

 IMAXの巨大なスクリーンに対峙するのが俺と知らんおっさんの二人(三人と思ったらもう一人が出入りしてただけだったらしい)だけ、という客の入りには驚いたが、まあ周囲を気にせずノリノリで観れるというコトで良しとする。なんせ俺の意識ではコレは音楽映画なのだ。コトによっちゃあ踊る心づもりで来ている。

 オープニングからいきなりI'm Not In Loveだからもう、なんてベタなんだ!ってなったけどまあアメリカ映画だしな。舞台は1988年、曲はピーター少年(9歳)が聴いているウォークマンから流れているのだ。9歳でこの曲はシブくないか。意識して聴くと、捉えどころのない曲だよなぁ。


 ピーター少年は母と死別するやいなや何の説明も無く突如現れる謎の円盤に深い理由も無く連れ去られる超展開なんだけど、勿論この時点で形見のウォークマンと今わの際に受け取った包みは持ったまま。そのまま、やはり何の説明も無く26年の歳月が流れる。この辺のいくらでも説明できる流れを全部省略する粗雑さがアメリカン。この26年で地球のテクノロジーはテープの時代を終え、CD、MD、データへと移行している。恐らく宇宙のテクノロジーはもっと進んでいるはずなのだけど、26年後のピーターは26年間壊れなかったウォークマンと26年間ワカメにならなかったテープを聴き続けている。特別なものだからな。ソニータイマーが働かなかったのは奇跡としか言いようがあるまい。それともスペースソニーがサポートを続けているのだろうか。

 妄想休題。

 いや、ストーリーの解説しても仕方ないんだよ。シンプルな馬鹿映画だから。あらゆる映画と同じく、色々あってオーブを盗み出したり刑務所に入ったり特に計画も無く大暴れして脱獄したり色々あって仲間になったりオーブを売りに行ったりそれが大変なものだと解ったり仲間割れしたり絆を深めたりオーブが敵の手に渡ったり宇宙を守るヒーローになることに目覚めたり巨悪と闘ったり因縁の対決があったり絶体絶命に陥ったり仲間の犠牲で窮地を逃れたりオーブを取り戻したり辛くも勝利を収めたり英雄になったり軽口を叩きながらいずこへともなく旅立ったりするような普通のSFヒーローもののストーリーなんだよ。

 以上、完全なストーリー解説でした。以下、ポイントを挙げる。

 木が可愛い。可愛いし、圧倒的に役に立つし、異常なくらい強いし、万能だし、可愛いし、いい奴だし、可愛いし、可愛い。複数の人から「ちびグルートのフラワーロックを発売すべき」というアイデアを聞いたが、完璧すぎるアイデアだし、多分それスタッフも考えてた。または逆にフラワーロックから着想を得たか。商品はI Want You Backの音源付きで発売すべき。ちなみにこのシーンのグルートの顔の造形、明らかにジャクソン5時代のマイケルをモデルにしてるよね。

 「普通の」とは言っても主人公チーム全員が刑務所で知り合ったという基本的に犯罪者チーム。冤罪とかじゃないからね。明らかに犯罪でぶち込まれた奴らだから。やることは滅茶苦茶だし場当たり的だし力技だしまとまろうと言う気が全然無いし。ヒーローになる動機も正義の為というより要するに宇宙がヤバいコトになるとみんな死んじゃうじゃん、っていうシンプルなものだし。小悪党が巨悪の前で死にたくないから宇宙を守る、っていうのもまあ、極端ではあるのだけど。

 以前このブログで扱ったパシリム、シンプル・シモン、バルフィなんかにも共通する「ラヴシーンが薄い」要素がこの映画も。最初のガモーラへのキスは未遂に終わるし、終盤ではむしろピーターよりドラックスといい雰囲気にさえ見える。そもそも最初のキス(未遂)は愛情というより殆どナンパに近いノリだし、宇宙に投げ出されたガモーラを救うシーンでありそうなもののそれもなく。多分メンバー間に恋愛感情は無さそうなのが素敵。

 ヨンドゥが意外に美味しいし、いいキャラ。と思ったら役者が監督の親友らしいんだな。地上戦の異常な強さも開いた口がふさがらなかったし、ひたすら糞野郎の悪党を演じつつ最後偽のオーブ掴まされたのに気付いた時の笑顔!アレが良いんだ。「小僧、やってくれたな」的な。ホントに親代わりだったし、愛情を持って接していたんだろうなあ、と感じさせるシーン。

 コレクター(オーブを買い取ろうとする人物)が出て来たとき、なーんとなくパシリムのハンニバル・チャウっぽいな(似ているわけではない)、と思っていたらラストで爆笑する羽目に。やはり映画はエンドロールで席を立ってはいけない。

 ところでI Want You Back、ピーターのテープを模したサントラ「最強ミックスVol.1」(国内盤は出ていないがこの名で呼びたい)に収録されているけど、劇中設定だとVol.2の収録曲の筈だよね。本来のVol.1&2の全曲目を知りたい。Ain' No Mountain High Enoughも入ってるし、Vol.2は少し古めのR&B系の選曲だったのかな……と妄想するのも楽しい。ってか母ちゃん、あなたは死の床で一生懸命テープを編集していたのか。どんだけ音楽マニアなのだ。友達になりたい。

2014年10月26日日曜日

VHSテープを巻き戻せ! / ナニワのシンセ界

 渋谷で「VHSテープを巻き戻せ!」を観てから約2ヶ月、同じ気分になるだろうな、と思いながらも、題材への興味に打ち勝てず「ナニワのシンセ界」を観た。同じ気分になった、が。

 「VHS」は要するにノスタルジーを90分語り続けるドキュメンタリーだった。「自分たちはVHSで育った」「ホームビデオ文化が花開いた」「DVDになってない作品も沢山ある」異口同音に主張や思い出が繰り返し。さっき聞いたような主張が脈絡無く再登場する場面も多く、90分が長く感じる。飽きるんだよ。

 確かにデジタル化されずに消えた(ゴミのような)作品も山ほどあるのだけど、残念ながらあらゆる意味でビデオテープにはDVDやBlu-rayより優れた面が無い。アナログレコードとは違うのだ。彼らはひたすらノスタルジーを語り、そこから新たな文化が産まれる可能性は全然見えてこない。

 VHSでオリジナル(ゴミ)作品を撮り続けるおっさんが登場する。「VHSは手軽だから考えずに撮れ!撮り続けろ!」と主張するが、残念ながら今やデジタル機材の方が遥かに安価で、手軽だ。

 「シンセ界」も作りは似通っている。こちらはノスタルジー要素は抑え目にしてはあるものの、代わりに「大阪の文化」の主張が強く出ていて、やはり同様に似たような話題が繰り返し登場し、飽きていく。

 致命的なのは、大阪の、伝統に根ざした面や、人と違うこと、面白いことをしたがる性質、ハブとして様々な文化が集まってくる土壌、という部分を語るのに、東京との比較が具体的に為されないこと。彼らは「東京と違って」と語りたがるワリには、実際に東京のシンセ文化はどうなのか、という部分が一切見えて来ない。だからその辺の主張は空虚に見えてしまった。

 シンセ好きによるシンセ好きの為の映画、って側面は良し悪しだろう。基本的な説明はすっ飛ばして中核から入るから、この映画を切っ掛けに「シンセ界」に入り込む可能性は皆無に近い。完全に内側の人間だけがターゲットなのだな。だから音楽の話題は殆ど登場せず、あくまで機材の話に徹する。YMOだけ少し出てくるのには苦笑したけどね。

 とはいえ、VHSとの大きな違いは、アナログシンセサイザーは現役の機材、文化であるということ。彼らには「これを使ってやりたいこと」があって、それをやっている。この映画はアナログシンセサイザーの「今」を語っているのであって、ノスタルジーの話では無い。この差は大きい。

 だってさ、なんだかんだで観ててシンセのつまみグリグリ回したくなったもんね。久々にVolca引っ張りだして遊ぼうと思ったよ。

2014年10月21日火曜日

Paul McCartney & Wings / Red Rose Speedway

 最初に買った時、豪華ブックレット(ヌード付き)に演奏メンバーの詳細なクレジットがあったのが嬉しかった(すでにそういう性格だったのね)んだけど、気になったのは2曲にデイヴィッド・スピノザとヒュー・マックラケンがクレジットされてたこと。当時すでに彼らがRamで参加してたセッションマンなのは知ってたんだけど、何故かこの2曲を当時のアウトテイクだと認識できず、何らかの理由で呼び寄せて参加させたって思いこんだのね。デニー・レインが参加してないんだから気づいてもよさそうなものなんだけど。

 勿論この2曲(Get on the Right ThingとLittle Lamb Dragonfly)はRamのアウトテイク。多分気づきづらかったのは、Ramが直前のアルバムじゃなかったからだと思う。Wild Lifeに収録しないでこっちに入れた理由が解らなかったのね。

 そういう意味で考えてもまだ謎があるのは、そもそもRed Rose Speedwayは2枚組になる構想さえあったにも関わらず、わざわざRamのアウトテイクを引っぱり出していること。2枚組ヴァージョンの曲目は解っているんだけど、その時点でこの2曲は含まれているから、Ramで捨てたのを勿体なく感じていただけなのかもしれないけど。

 まあ、どちらも確かに良い曲だ。俺がこのアルバムで最初に気に入ったのがGet on the Right Thingだし、ウチの妹はLittle Lamb Dragonflyをフェイヴァリットに挙げていたことがある。少なくとも我が家では大人気の2曲だった、と言って間違いない。要らないデータだけどな。

 アルバム全体の空気感もWild LifeよりRamに近くて、多分レコーディング方法も近かったんじゃないかな。前作はウイングスのお試し録音的な色彩の強い一発録り、今作は再び、ベーシックをラフに録ってそこにオーバーダビングを施す形式。ただ、今回はバンドの為、ポールのコントロールが行きわたりきれない部分もあったと思われ、Ramの時より幾分ラフな仕上げになる。

 あと、Ram Onの二つ目のヴァージョンでBig Barn Bedの予告がされてるのもRamとこのアルバムの連続性を感じさせちゃう一因だよね。予告しといてWild Lifeじゃなくてこっちに入れちゃう、っていうのが、変な人だよなぁ。もしかしたらポール、リンダ、サイウェルで録った原型ヴァージョンみたいなものがRamの時点であったのかもしれない。

 そもそも、ポールが「曲がいっぱいある」っていうときは楽曲のレベルを無視してものを言ってることが多くて、実際このアルバムの2枚組ヴァージョンで聴くと、感触がLost McCartney Album(McCartney IIのオリジナル)に近くなる。インスト曲や妙にラフな曲がいっぱい入ってるんだよね。その片鱗は完成版でもLoop (1st Indian on the Monn)や、ラストの小粒メドレー(いや、俺は大好きだけど)に現れている。

 そういう意味では、好き嫌いは別としてもMy Loveはまさしく「画竜点睛」だったと思うんだよね。完成度って意味で明らかに飛びぬけてて、アルバム全体がピリっとする。だからってLive and Let DieやHi Hi Hiまで入れないあたりのバランス感覚も素晴らしいな、とも思うんだけど。

2014年10月19日日曜日

The Yardbirds

 ブルーズ至上主義者のエリック・クラプトンはヤードバーズにとって邪魔ものであった、少なくともバンドの進化の妨げになる存在であった、という解釈。

 エリック時代に残された音源の大半はライヴ。それ以外は2枚のシングルと、64年までに残された数曲のデモ録音のみ、ということになる。スタジオ、ライヴ共に基本的にブルーズ、R&Bマナーに則ったスタンダードな演奏で、勿論エリックの志向にも沿ったものだったと思われる。シングルのGood Morning Little Schoolgirlはかなりポップなアレンジになっているのだけど、これに対してエリックが異論を唱えた、という話も無いから、ある程度の割り切りはあったのかもしれない。

 ただ、おそらくバンドはもっとメジャーに、ポップに、そしてアーティスティックな方向に進みたかったんではないか。ポップとアーティスティックは矛盾しないのだけど、ブルーズを追求すること=アーティスティックな姿勢、と思っていたギタリストはこれを良しとしない。かくして、バンドはエリックを切り捨ててでも「ポップでアーティスティックな」グレアム・グールドマンによる新曲For Your Loveの録音を敢行する。

 ここから3枚、グールドマンの提供曲によるシングルを連発するのだけど、Heart Full of Soulからはエリックよりずっと柔軟で、ロック的なギタリスト、ジェフ・ベックを迎えることになる。それによってバンドはエリック時代に行っていたブルーズ/R&Bの模倣という領域から抜け出すことが出来たんじゃないかと思う。

 後に10ccを結成するグールドマンの曲はこの時代から既に所謂「ひねくれポップ」の味わいを出していて、結構狂っている。それを受け止めるにはエリックでは不十分だった。そして、そのエッセンスをバンド側が吸収していく過程はEvil Hearted YouのB面、Still I'm Sadを経て、必殺の代表曲Shapes of Things、そしてOver Under Sideways DownとアルバムRoger the Engineerへと、刻々進化するオリジナル曲に表れている。

 ここまでのオリジナル曲全てにマッカーティとサミュエル=スミスの名がクレジットされてることも重要(アルバムの収録曲は全員の共作名義)。なんかこの時代、ベックが曲書いてるとか勘違いされてそうな気がするけど、実はこのあと、ペイジ加入に至ってもバンドの中心人物はレルフとマッカーティなんだよね。Shapes〜がレルフ/マッカーティ/サミュエル=スミスって名義なのは少し驚いたな。

 さて、ヤードバーズを追い出された(という認識は誰にも無いだろうが)エリックはと言えば、ジョン・メイオールのバンドに加入、取り立て観るべきところのない凡庸なブルーズの模倣作品をリリース。しかし、自分が抜けたバンドがRoger the Engineerをリリースしたのを見て「これではマズいのではないか」とようやく気付いて、ポップでアースティックなロックバンド、クリームの結成に至るのだ。こう解釈しないとクリームのデビューシングルが「包装紙」ってコトの説明がつかないのよね。

2014年10月16日木曜日

Led Zeppelin / Immigrant Song


「移民」と「Immigrant」の音の一致は素晴らしいながら置くとしても。

 Zepの代表的ハードロックヒットとして聴かれているこの曲だけど、14年リマスターを聴いてなんとなく正体が分かった。ある意味でこの曲、Kashmirの先祖的な位置づけでもいいんじゃないだろうか。

 パーシーが北欧神話をモチーフに詞を書いたのはてきとうにやったワケじゃなくて、やっぱり曲の持ってるエキゾティックな、ケルティック、なのかな?そういう響きを読み取ったが故、なのは言うまでもない筈。イントロの咆哮(?)だってそういうメロディラインだし、レコードのヴァージョンには出てこないペイジのギターソロもどこかエキゾティックなメロディ。基本テーマとしてそういう方向性がはっきりあったことは間違いない。

 そう思って聴くと、実はリフ、そしてそれにシンクロするボンゾのあの、それこそハードだ、ラウドだと解釈されがちなキックのフレーズも実はヘヴィでこそあれ、ハードというよりむしろある種のシーケンスフレーズ的な、ミニマルなフレーズに聴こえてくる。実際、ライヴではともかく、スタジオヴァージョンの特に歌バックを聴いているとベースともども凄く淡々とプレイしているのが解る。これがエキゾティックなメロディのバックを担うことによってどこか呪術的な雰囲気も漂わせる、というワケ。

 14年リマスター収録の別ミックスを聴くともう少し解りやすくなって、特にエンディング付近からのサイケデリックな味付けがこういう要素を強調していることが解る。完成版ミックスではこの辺は少し抑えられ、よりキャッチ−なポップミュージック(シングルヒット向け!)としての完成度を目指す方向性に改められたようだけど、別ミックスだと、突如大量に重ねられるパーシーのヴォーカルや、そのあとの唸り声、ギターのサウンドなどがかなりサイケデリック、しかも英国サイケと言うよりDr.ジョンのヴードゥー路線みたいな音にさえ聴こえることが解る。

 実はこの解釈だと次のFriendsへの流れも自然だし、誤解されがちな「異色作の中で唯一の従来路線」なんてのは大嘘だ、ってコトもよく解るはず。結構実験的なんだ、この曲も。

2014年10月15日水曜日

フランシス・ハ

 俺らしくないセレクトなのかな?なんか「女の子が観そうな映画」(偏見)を観た。意外に男の、しかもひとりの客が多かったけど。土曜の昼間で、カップル居なかったなー。

 っていう偏見を持って観に行ったこの映画、奇妙なタイトルと、予告編のスピード感(白黒のせいでA Hard Day's Nightっぽいとか騙されかけた)、それから主題歌のModern Loveのせいで興味を持ったのだけど。

 ストーリーにも映像にもスピード感があって、感覚としては凄く観やすい(俺のような集中力のない映画初心者には特に!)作品だったんだけど、そのスピード感が徒になった部分もある。基本的に場面や時間の転換がやたらにスピーディーで、時間の進み方がところどころで解らなくなる面もあって、そのうえ主人公フランシスは基本的に行動がいきあたりばったり、しかもこの女、嘘つきというか見栄っ張りなので、観ている側にも彼女の置かれている状況が把握しきれなくなってしまう。

 その結果、終盤での親友ソフィとの再会、和解を経て、最終的には(おそらく)チラシの煽りにもある「ハンパなわたし」を受け入れて身の丈にあった生き方を再発見、そして成功、という流れが、観てる最中にはとても唐突なものに感じてしまうのね。あとから脳内で流れを補完する伏線というか流れはちゃんとあって、「ああ、そういう流れでの自己肯定なのか」って解るんだけど。俺の頭が悪いのか?

 「ハンパなわたし」であるところの主人公は前述の通りガチでハンパ者で、享楽的で行動が行き当たりばったりで、見栄っ張りで社交的だけど空気が読めなくて、自己主張が強くて寂しがり屋でだらしなくて友達に依存してて間が悪くて、ガキなんだよね要するに……ってかね、俺を観てるようで、もう観ててしんどくなってくるんですわ。ホント、こいつの言動観てるとイライラしてくる。ただ、よく言われる「不器用」ってのは違うと思うし、「こじらせ女子」って表現にもなんか違和感あるな。むしろ(いい歳して)天真爛漫すぎてこじらせ切ってない、と言うか……「間が悪い」って書いたけどそれは彼女の性質と言うより「そういう時期」っていうところもあるしね。

 いや、実際のところ基本的にはいい子だし、容姿もなかなか可愛くて整ってるんだけどね。体型が微妙にもっさりしてるのも絶妙だよなぁ。

 まあ、そういう意味で、主人公もそうだし、脇も含めてキャラクター描写はなかなか優秀だと思う。みんな適度にキャラが立っていて、こいつはこういう奴、ってのがすぐに解る。前述のソフィが魅力的だったな。フランシスと同レベルで楽しく暮らせる程度には駄目な奴なんだけど、ちょっとだけ真面目でしっかりしていて知性もある。だからフランシスは彼女に依存できてしまうんだけど、その差異の描写は絶妙だったと思う。あと、それなりに知的な眼鏡美人(知的すぎないし、美人過ぎない)なんだけど、知性を眼鏡じゃない部分で感じさせてるのは素敵だったな。まあ、ある人に言わせると「出版業界によくいるタイプの知的なブス」らしいけど(笑)あ、因みに、スティングの娘(!)だそうです。

 すでに触れたとおり、俺はこの映画を感じ取りきれなかったんだけど、「ターニングポイントは母校でのバイト」ではないか、と言う人がいた。成る程、と思いつつもコレはひとの視線だから俺は細かく書かないし記憶があやふやで書けない(笑)けど、やっぱり俺がフランシスに自分を重ねてしまう程度に今現在駄目であること、つまりフランシスが劇中で通った道を通過しきっていないことがやっぱりこの辺を感じきれなかった理由かなあ、って思う。
 まあとりあえず、学校の(寮の?)廊下で子供が泣いてるシーンは台詞も状況説明も全然無いけど、フランシスが他者との関わりを意識したことを表現している重要なシーンだと思う。

 音楽にも触れよう。Modern Loveをバックにフランシスが走り踊るシーンは流石にニコニコしてしまったし、T. RexのChrome Starがちょこっと流れたのには意外にゾクッときた。チョコレート・ドーナツでの扱いが悪かったからさあ(笑)溜飲が下がった。パリのシーンでのHot ChocolateのEvery1's a Winnerも印象的だったな。ってか、この曲知らなくて、でも凄い気に入って後で調べたんだけど。思わずベスト盤を買ってみたらこの曲が一番好きだと言うことが解った(笑)

 でもなにより、彼女が男友達の家に転がり込むシーンでちょっと流れたポール・マッカートニー79年録音の未発表曲、Blue Sway。McCartney IIのデラックス盤リリース時に登場したリミックス(86年)なんだけど、ポールはたまにサントラ用に突然未発表曲を提供したりするから油断できないんだよね。コレはデラックス盤が先に出てるからいいんだけどさ。いや、マニアックだし大好きだし、すげーニヤニヤしちゃった。

2014年10月14日火曜日

バルフィ! 人生に唄えば

 可愛い映画だったが、上映時間が可愛くない。長い。2時間半、ってインド映画としては短めの部類に入るらしいと聞いた時は開いた口がふさがらなかったが、まあ、実際問題としてはテンポも良かったし、楽しかったし退屈はしなかった。尻は痛くなった。

 聾唖の青年バルフィ(本当はマルフィなんだけど、発声が不自由な彼が発音するとバルフィに聞こえる)と二人の女性を巡るラブコメ。一人は婚約者がいるにも関わらずお互いになかば一目ぼれしてしまった美女シュルティ、もう一人はお金持ちの一人娘で自閉症のジルミル。まあ3人揃って容姿がもう素晴らしいんだがそれはまあインド人補正プラスファンタジー映画、ということで。

 ファンタジーなんだよね。まず、この映画にリアリズムを求めたらそれは完全に間違いだし、楽しめない。ネットのレビューに「バルフィのやってることは犯罪で、容認できるものではないし感情移入できない」とか逆に「障害者は無条件でいい人のような描写がされている」みたいな的外れなレビューがあったけども、まああなたは映画を楽しむのには向いてないからご自宅でニュース番組だけ見ていなさい。

 映画はグランド・ブダペスト・ホテルのように三つの時間軸で構成されている。現代と、1972年と、1978年。違うのは過去の二つの時代はともに事件が動いていること。要するにシュルティとの恋を描いたのが72年編、ジルミルとの愛を描いたのが78年編、そして、バルフィとジルミル以外の登場人物たちが何故かインタビュー形式で当時のコトを語る現代のシーンが挿入される、という構成。この現代のシーンの意義がよくわからないんだけど。まあ、幸せなエンディングを描くためのものだったのかな?それにしても現代シーンでの登場人物たち、とくに主役級3人の老けメイクの雑さには笑う。ドリフのコントかよ!っていうレベルでな(笑)まあ、ファンタジー。

 っていうね、突っ込みどころは沢山あるんですよ。そもそもが二つのラヴストーリーを詰め込む必要があったのか、ってところからしてね。まあ確かに後半部分、ジルミルがシュルティに嫉妬するシーンはその結果ジルミルの失踪につながるから重要なのは事実だし、耳の聞こえないバルフィにジルミルの呼び声を伝えるべきか逡巡するシュルティのシーンも切ないし、テーマにも直結するいいシーンだから無意味ではないのだけどね。

 でもまあ、突っ込みどころはスルーしつつ笑って楽しむのがこの映画の正しい鑑賞法だよね。

 「この映画はフィクションでありファンタジーです」ということの表現として音楽が使われているのは面白い。突然歌われてストーリーを説明する劇中歌もさることながら、BGMを演奏する楽団が画面に映り込むこと。しかも彼ら、時間を超えて同じ場所で演奏し続けてたりする。画面だけ転換して楽団は固定されてるわけ。
 しかも音楽がいい。劇中歌もポップで、しかもインド楽器がいいバランスで使われてて聴き応えがあるし、BGMはインド風味を持ちながらどこの国の人でもノスタルジックに感じるような、ミュージックホール風とかにも近いのかな。そういう空気があって心地よい。

 この映画は徹頭徹尾ファンタジーだ。ラストシーンは危篤のバルフィにジルミルが寄り添い、そのまま一緒に息を引き取る。直前まで元気だったジルミルがここで死ぬ理由は全く無いし、そこにリアリティなんか一切無いんだけど、これはおとぎ話。ジルミルが死んだ理由は「そう望んだから」「バルフィと一緒に生きて、一緒に人生を終わろうと思ったから」それで充分だ。

 あとパシリム主義者的には、バルフィとジルミルがキスしないでおでこコツンやるのはポイント高いよな!ちなみにシュルティとはキスシーンがあって、それはそれで興味深い。

2014年10月13日月曜日

ローマ環状線、めぐりゆく人生たち

 面白そうだと思って観に行ったら全然わからなかった映画。

 グレート・ビューティで描かれるのとは真逆の、華やかなローマではない部分を切り取った作品。幾つかの場面が定点観測的に繰り返し描かれる。救急隊員の日常、TSの売春婦、偏執狂的な植物学者、うなぎ漁師の夫婦、邸宅をレンタルする没落貴族、朝から晩まで会話を続ける父娘……

 基本的にはドキュメンタリーで、環状線周辺に暮らす人々の生活を描いているのだけど、ただ、(映画、ひいてはドキュメンタリー慣れしていない)俺の感じ方が下手なのか、視点がなかばランダムに切り替わり、明確な焦点が無い映像には戸惑ってしまった。自分の視点の置き場が無い。感情移入する先が無いのは仕方ないし、物事は俯瞰で観たい性格なので良いのだけど、カメラは俺がもう少し観たいと思うと次に切り替わり、もういいやと思う部分を延々映し続ける。この匙加減が俺と監督で食い違ってたのが一つの原因。

 もう一つは、ドキュメンタリーでありながら妙に芝居がかったシーンが散見されるところ。特に没落貴族のシーンは邸の内部で映画(ドラマ?)撮影が行われたり、その最中に主人が別の部屋で風呂に入っていたり、家族でパーティ(教会の儀式?)に行くシーンも微妙に非現実的だったり、まあこのシーンだけ「華やかなローマ」の断片というか、残滓が混ざっているせいもあるんだろうけど、唐突な印象があって自分の中のスピード感覚が狂わされてしまう。

 だからだんだん何を観てるんだかわからなくなって、結局印象的なシーンは沢山あるんだけど微妙な気分ばかり蓄積されていく映画、という印象になってしまった。

 だけど、この映画の後に二本の映画を観て少しだけ解った気がする。

 グレート・ビューティはフィクションだけど、これとセットで観るといいと勧められていた。確かに、対比出来るシーンが沢山あったり、断片的な映像が、あくまで他人事として通り過ぎていく感覚は意外に近い。視点を主人公に置くか、監督に置くか、という話なワケだ。

 それから「無作為な定点観測」という意味でリヴァイアサンが意外に近いんじゃないか、とも思った。無作為では無いんだけど、何箇所かに取り付けられたカメラがそこで起こっていることを淡々と映し出していく。人の生活と魚の死体は等価なんじゃないか、という気さえしてくる。

 映画的ドラマに結実しないフィクションと、ドキュメンタリー的主張を持たないドキュメンタリーを観て、ようやくある程度この映画の鑑賞法が見えてきた。もう一回観るかなぁ。

2014年10月8日水曜日

リヴァイアサン

 89年に同名の怪物映画があるらしいけど、それじゃない。怪物映画かホラー映画と思いながら予告編を観ていたがどうも違うっぽい。ドキュメンタリー?なんか様子が違う。予告を観たらなんだかわからなくてとても気になっていたので、逡巡した末に、観に行ってみることにした。

 本編を観たらなんだかわからなくて、そしてとても惹き込まれた。

 どこぞのネタばれレビューにもあった通り、結局どんな映画かを知るためには予告編を観ればいい。予告編にはこの映画の内容を示す全ての情報がある。だけど、予告編でこの映画を感じ取るには圧倒的に不足している。何が不足なんだろう。映像か、音か、時間か。

 なんだかわからない映画を文章で書き示すのはとても空しい。この作品が求めているのはただ感じることだけ。映像にも音にも意味なんかなくて、全ての情報がフラット。人間も生きている魚も死んでいる魚もホタテもヒトデもカモメも船体も重機も網も海も空も水も朝も夜も音も無音も全部が等価。あらゆるところに取り付けられたGoProなるカメラがあるがままを映し出していく。そりゃあ編集には人間の意図が入り込むんだけど、それだって意味の排除に細心の注意を払っているようにさえ見える。

 そんな映画だから、正直言って最初は退屈した。何も起こらないんだもん。でもところどころに目を惹く映像が、耳を惹く音が出てくる。何も起こらないところに突然、自分の感覚に入ってくる一瞬は鮮烈だ。そういうことが繰り返されると、少しずつその感覚が増えてくる。それは後半に行くに従って目を惹くシーンを増やしてるんじゃなくて、自分の感覚がこの映画に馴染んできてるんだと思う。そうしているうちに、映画の世界に完全に惹き込まれている自分に気づく。

 等価とは言ったけど、全編が重圧の塊のような映像だから、カモメが出てくると圧倒的に癒された気持ちになるのもまた、ほんとだけど。

2014年10月6日月曜日

グレート・ビューティー/追憶のローマ

 「まだ」43歳の俺にはこの映画に共感するには若すぎるのかもしれない。それでも、主人公の空虚さは伝わってきたし、翌日くらいまでなんとなくアンニュイな(笑)気分になった。まあ、翌日が月曜だったせいもあると思うけどね。

 ストーリーを説明すると、老作家がある切っ掛けで色々と空虚な気持になって後ずっとエンディングまで2時間20分、というもの。こう書くと長くて退屈な映画っぽいでしょ。多分、それ正解。でも、俺は退屈はしなかった。長かったよ。長いけど、各シーンの展開はスピーディだし、映像は美しいし、なんとなく目を奪う瞬間が連続してるから飽きない。これをスペクタクル無しでやるのは大したものなんじゃないかな。

 画面としての緩急は、クラシカルな音楽が流れる平時のシーンと、時折挿入されるパーティのシーンで付けられている。しかしローマの老人たちは結構激しいイタロハウス(?)で踊りまくるんだね。序盤のシーンは非常に長かったけど、俺は一緒になって半踊りだったけど(笑)まあ、ハウス系の方も、クラシカルな方も、音楽は総じて良かった。オープニングのコーラスは凄く印象的。劇中人物が歌っていながらBGMを兼ねていて、世界の曖昧さを表現しているように見える。

 曖昧、というのは、主人公の夢とも回想ともつかないシーンと現実のシーンが交錯すること。それになかば非現実的なナイトパーティが更に混ざるから画面の印象は混沌とする。また、俺たち外国人にとってはローマの風景自体が非現実的だったりもするし。まあ、夢とパーティは共に空虚にとらわれた主人公の逃げ場だからそれほど違うものじゃないんだろう。

 それでも、主人公自身は自身の逃避も含めて凄く冷静に自身や周囲を眺めている。たぶん自分自身についても他人事のような気分なんだろうけど、それでも友人の息子の葬儀では直前に「参列者は泣いてはならない」と持論を語るクセに棺を担ぎあげた瞬間に号泣するし、俗物枢機卿に何か言いたそうにしてると思ったら彼の偽善を突くでもなく「エクソシストだったって本当ですか?」だし(芸術家気どりを意地悪なインタビューで泣かせたり、友人の女性による自分自慢をばっさり切り捨てた人間の言うことか?)、彼自身の俗な部分、正気でコントロール出来てない部分も垣間見えているから面白い。

 彼が正気に映るのは映画が彼の視点で描かれてるからで、そういう意味では他の連中が俗物のボンクラに描かれてるのも彼の視点だからなのかもしれない。そう考えると、彼のコトを「友達」と、すごくさっぱり言ってのける女性編集長が凄く正気で聡明な人物に描かれてるのも、本当に彼が「友達」として信頼してるのが彼女だから、という感じもするな。所謂小人で、しかもしわしわのおばあちゃんだし、登場シーンもさほど多くないけど他のセクシー熟女(笑)よりずっと魅力的に描かれてるんだよね。

 他にも主人公の親友で理解者だけど少し見下されてるボンクラな親友(デブでモテないくせに格好つけたがるあたりが俺っぽい)とか、主人公に虚栄を指摘されて激怒する友人女性(前述)とか、怪しい医者や同じく前述の俗物枢機卿(料理の話しかしないカリカチュアライズぶり)、ライヴペイントを披露する天才(?)少女、104歳の清貧シスターなど、印象的なキャラクターや出来事が入れ替わり立ち替わり、繰り返し登場するのだけど、全て主人公の人生を通り過ぎていく存在として掘り下げることもなく淡々と描かれる。それは大きなエピソードも小さなエピソードもほぼ等価で、心を通わせたストリッパーの死も、ずっと気になっていた隣人の正体も、一見ロマンスに見える友人女性との和解(?)も、初恋の女性の死と想い出も、全て同じレベルで、主人公にとっては一瞬心を動かされるんだけど数日〜数週間で風化するレベルの出来事だ。

 それは映画としては「えっ!?」と思うんだけど、まあ、人生としてとらえるとそんなもんだ。だって、俺たちは他人のコトにそれほど興味が無いし、実際彼らは俺の人生に関係ない。

 だから大きなエピソードがエンディングに直結しない。こういったことが色々あって再び筆を取る決意をしたとか、享楽的な生活が祟って悲惨な最期が待っているとか、和解した友人女性と恋に落ちて幸せな老後を送るとか、そういった、何がしかの結論的エンディングは存在せず、ローマの河が美しく流れていくだけだ。

 最後にネタばれ。既に少し書いたけど、映画のポスターになっている主人公と女性が抱き合うシーンは前述の友人女性との和解のシーンだ。この映画を観に来た人の中にはこの画像から「年老いた男女のラヴロマンス」的なものをイメージした人も少なからずいると思うんだけど、このシーンで主人公が女性に対して語る言葉は「きみとセックスしたことはあったっけ」というものだ。ロマンティックな映画を期待した人はさぞかしがっかりしただろうなぁ。

2014年10月4日土曜日

 「NO」と言うタイトルから電気の曲名、ひいてはニュー・オーダーを思い出してしまうがこのタイトルは「エヌ・オー」ではなく「ノー」と読む。素直に読め。

 88年にチリで行われた、独裁政権の是非を問う国民投票を扱った映画。ホドロフスキーの「リアリティのダンス」がチリを舞台にしていて、それを観た後でこの映画の予告編を観たから気になっていたのだな。音楽もそうだけど興味が芋づる式に繋がっていくのでやめられない。特に俺なんか映画そのものが新鮮だからね。

 早くも閑話休題。

 政治的な内容で、ドキュメンタリーを内包したフィクションと言う意味では以前観た「怒れ!憤れ!」にも通ずるが、こっちはもっとフィクションだし、物語だ。ドキュメンタリー的ではないな。当時の本物の映像を使ってるだけで。その本物の映像をなじませるために映画全体が80年台のビデオ機材で録られてる、って手法は面白いのだけど。
 内容的にも政治は扱っているけど難解ではなくて、知識ゼロの状態で観ても充分理解できる(パンフを読むと背景が解ってもう少し掘り下げられるからより面白いけど)。

 独裁政権に対しての是非を、15分枠のテレビ番組を通して各陣営が問うのだけど、所謂政見放送のスタイルではなく、国民にシンプルな形で浸透するようなPR番組を制作、放送する。そのためにプロの広告屋が雇われて……というのが大まかなストーリー。勿論主人公がNO陣営の番組を担当し、同時にSI(Yes)陣営には彼の上司が所属し、敵対する立場になるというのはよくあると言えばよくあるんだけど、まず敵対(というか、敵対しなさ)ぶりが面白いんだよね。

 何がいいって、二人とも自分の職務に対しても思想に対しても徹底的にクールで、プロフェッショナル。主人公が自身の広告をプレゼンをするシーンが4回くらい出てくるんだけど、1回目はコーラ会社、2回目はNO陣営、3回目は映画、4回目(エンディング)は何だっけな。ともかく、4回とも全く同じトーンで、同じテンションで、同じ方法で話を切り出す。「まず最初に言いますが、これは現代にマッチしています」クライアントが誰でも自分のスタイルは一切崩さない。「政権を倒すんだ」と熱く燃えるのは彼の政治思想もあるんだけど、実は彼自身の中では「コーラを売るんだ」でも「映画をヒットさせるんだ」でも全く等価なのね。

 それはYES陣営の中心人物でもある彼の上司も同じで、歳が行ってる分若干保守的な部分があって、あと政権との繋がり(癒着?)的な部分も見えて、主人公よりは俗っぽく描写されてるものの、自分自身の「作品」に対する視線のクールさや、主人公との関わりで彼を「敵」として見るときと「仕事仲間」として見るときの線引きが異様なくらいしっかりしてて、後半むしろこの人のプロっぷりに惹きつけられたくらいだ。

 両者ともに放送を観るときは常に「自分の作品」と「ライバルの作品」への批評的な、冷徹な目を向けるだけで、興味の対象は「どちらのイデオロギーが正義か、勝利するのか」ではない。勿論彼ら自身自分の信じる政治思想の側に立っているのだけど、決して思想に寄り添わず、あくまで「どちらのアプローチがアピールするのか、勝利するのか」だけが彼らの興味なのだ。

 だから、主人公はNO陣営の勝利には喜ぶけど仲間とともに勝利の美酒に酔うでもなく、あくまで自分の仕事を一つこなし、成功させた、という時点で終わっているわけ。だからパーティにも加わらず息子を連れてさっさと帰宅する。そして次の仕事を、何事もなかったように同じ上司と組んで行う。上司も彼のプレゼンにハクを付けるため、平気で「彼はNO陣営の宣伝担当でした」と吹聴する。うっかりするとコレを彼らの和解と観てしまいそうなんだけど、そもそもこの二人は別の仕事をしていただけで(ある意味では)仲違いさえしていなかったのだ。ただ、クライアントが敵対してたからその職務に忠実に振る舞っただけで。

 他の人物たちも多かれ少なかれクールでドライでプロで、印象深いシーンも沢山あるんだけど俺はこの二人の描写にすごく強く惹かれた。勿論独裁政権下の政治劇で、デモへの弾圧や政治活動への圧力なんかも描かれてるんだけど、それより「プロの広告屋のクールな仕事っぷり」に主眼を置いたのがこの映画最大の魅力だったんじゃないかなぁ。少なくとも俺にはね。

2014年10月2日木曜日

ゴジラ

 にわか映画ファンはサブカルかぶれのマニアック臭いヨーロッパや南米映画ばかり観ているわけではない。

 「国民の義務だ」と主張する友達がいるのでゴジラを観に行った。とはいえ、今回のゴジラは米国産の為、義務だとしたらアメリカに納税していることにならないだろうか。やはり日本はアメリカの属国なのか。

 とはいえ、前回のパサパサしてそうな米国産ゴジラと違い今年のゴジラはいかにも脂が乗っていて旨そうだ。国産ものほど繊細な味わいは期待できないだろうけど、味わってみて損は無いと思ったのは紛れもない事実。そしてこのネタが定まらない感じはツイッターで書き散らかしたネタを無駄に再構築しているからに他ならない。

 余談だが「養殖ゴジラ」とはジラースのコトである。

 さあ、書きたいことは書いた。あとは映画の話。とはいえ、この映画何を書いてもネタばれになるので観てない人は読まない方がいいかもしれない。警告は書いたぞ。さあ、はじめるぞ。

 結論から書くと、うん、凄く面白かった。突っ込みどころは山盛りで、パシフィック・リムで突っ込んだところをもう一回同じ突っ込みしたくなる部分さえあったけどもうコレはレジェンダリー・ピクチャーズのお家芸と認定してもいいんじゃないかな。MUTO♂=オオタチ、MUTO♀=レザーバックって気分になる部分もしばしば。

 相変わらず核の扱いがぞんざい(ラストシーンなんか特に)なのはまあ米国産レジェンダリー印としてやむを得ない。「アナログ回路だから電磁パルス攻撃されても動作する」ってパターンも繰り返されたけど、「原子力はアナログ」と言う無茶苦茶な設定からちゃんとしたアナログタイマーを設定するというところまで科学考証のレベルが向上したのは認めたい。

 目先の獲物に留めを刺せばいいものを背後の気配に気を取られ逃げられる、というパターンもまたパシリムにもあったけど、これは突っ込みどころというより「王道」と捉えるべき。主人公が異様に運が良くて丈夫、ってのもしかり。ヒーローもの、怪獣ものでは「恰好よいと判断される現象はすべてに優先されなければならない」と言う法がある。それに従って作られているだけでも今回のゴジラは圧倒的に正しい。

 ただ予想と大きく違ったのは、俺はこの映画、初代ゴジラトリビュートだと思ってたのね。過去の「第一作」がそうだったように。だから、MUTOは序盤でゴジラに倒されて(多分捕食されると思っていた)、後半は米軍+芹沢博士がいかにしてゴジラを倒すか、っていう内容になると思ってた。そして勿論、初代芹沢博士と同様に渡辺建もゴジラと刺し違えて太平洋に散ると思っていた。

 そもそも渡辺建は主役でも何でもなくて、要するに「驚き&解説担当」だったというね。そして映画そのものは事実上「ゴジラ対ムートー」だったというね。しかもゴジラの動機はよくわからず、結果として「人類の味方」としてMUTOを倒し、格好良く太平洋へ去っていく、というラスト。正直「えぇーっ!」と思ったけど、そう思いながらその「えぇーっ!」って気分にさえ満足してる自分がいる。

 つまりこれは、昭和初期ゴジラのトリビュートと言っても良い映画だったわけだ(平成ガメラという意見もネットには散見されたが、俺は観てないので解らない)。

 で、やっぱり面白かったんだよ。映像はもうひたすら圧倒的で、ゴージャスで金かかってて凄いし全編が見せ場になってるから飽きてる暇も無いし、ゴジラやMUTOの演技も申し分ないし、CGのモンスターというより着ぐるみの怪獣だからゴジラ映画だし、子供も出てくるから怪獣映画だし、軍隊は役立たずのくせに格好いいから怪獣映画だし、なんかアレだな、ちゃんと「観たかったもの見せてくれた」って感じかな。